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Ⅰ 戦後の混乱と諸改革 1947-1949

写真:3枚 更新:2020/06/08 作成:2020/06/08 管理者
 日本の戦後史は、昭和20年(1945)8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国側に通告し、翌15日のラジオ放送で天皇がそれを国民に知らしめたことから始まる。埼玉県には、昭和20年(1945)11月1日大宮市(現さいたま市大宮区)の片倉工業株式会社大宮工場に埼玉軍政部(のち、浦和市(現さいたま市浦和区)の埼玉会館別館に移転)が置かれ、様々な民主的改革や福祉政策が行われた。一方で、食糧不足など県民生活が混乱する中、昭和22年(1947)9月に関東・東北地方を襲ったカスリーン台風は、県内各地に大きな被害をもたらした。
冠水が続く大沢町(3) 昭和22年(1947)9月21日 南埼玉郡越ヶ谷町(越谷市) カスリーン台風で利根川や荒川をはじめとする河川が氾濫し、広範囲で堤防が決壊した。写真は、越ヶ谷町から洪水による冠水が続く大沢町(現越谷市)をとらえたもの。台風による被害は、死者101人、負傷者1,430人、家屋全壊725戸、半壊2,116戸、流出396戸、床上浸水4万4,855戸、床下浸水3万4,647戸だった。写真の元荒川にかかる鉄橋は東武伊勢崎線。
県庁の焼失(15) 昭和23年(1948)10月26日 浦和市(さいたま市浦和区) 10月25日午後11時50分ごろ、埼玉県庁舎新館2階から火の手があがった。明治25年(1892)に竣工した洋風建築であった本館をはじめ、庁舎の大半が木造であったため、火災は新館にとどまらず本館にも延焼した。焼失建物延べ2,000坪以上、被害総額は当時の金額で1億5,000万円といわれた。
戦後4年を経た熊谷市(30) 昭和24年(1949)8月14日 熊谷市 戦災復興都市計画により整備が進む星川通り。看板には完成予想図が描かれている。熊谷市は、終戦直前の昭和20年(1945)8月14日の深夜に米軍による空襲を受けた。この空襲で市街地の74%が被害を受け、266人が死亡した。戦争から4年を経た熊谷市では、空襲によって焼失した3,630戸を上回る住宅が新築され、人口も6万5,000人を突破した。市は8月15日を平和復興記念日として行事を行った。