※終了しました。
※チラシはこちらからダウンロードできます→企画展「みんなの学校(まなびや)」チラシ.pdf
令和6年度企画展
「みんなの学校(まなびや)―教育史編さんと学校アーカイブズー」
県立文書館では、6月1日(土曜日)から9月1日(日曜日)にかけて、企画展「みんなの学校(まなびや)-教育史編さんと学校アーカイブズ-」を開催します。
令和5年(2023)は、近代的な学校制度を定めた学制の施行から150年目でした。そして本年、教員を育てるための学校である埼玉県師範学校(現・埼玉大学教育学部)は設置から150年を迎えます。こうした本県の教育に関するあゆみは、昭和40年(1965)から昭和52年(1977)に行われた埼玉県教育史編さん事業、埼玉県戦後教育史編さん事業によって『埼玉県教育史』などにまとめられました。当館はこの事業で収集された資料を所蔵するとともに、県内の学校の文書や教科書類も収蔵しています。学校は人びとが学ぶ場であるとともに、日誌や写真など地域の歴史を考える手がかりとなる「学校アーカイブズ」が残されている場でもあるのです。
本展では、江戸時代から戦後にかけての埼玉における学校教育に注目し、人びとが学び舎で、何を、どのように学んできたのかについて紹介します。
1 会 期 令和6年6月1日(土)~9月1日(日)
2 開館時間 午前9時~午後5時
3 休 館 日 月曜日、祝日、月末休館日(7/31[水])
4 会 場 県立文書館 1階 展示室2
5 展示のみどころ
1.江戸時代の教育① -寺子屋-
寺子屋は江戸時代に庶民の教育機関として誕生しました。その数は江戸時代末には県内で約800か所に及んだとされます。学んだ子供の年齢層は5歳から20歳頃までで、読み書きやそろばんなど実用的な内容が教えられました。
主な資料 ①弘化3年(1846)「手習子供名前附」(会田家文書7726)
②天保14年(1843)「いろは覚」(篠崎家文書277)
① ②
2.江戸時代の教育② -私塾-
民間の私塾は江戸時代中期以降に県内各地で作られました。なかでも川越の奥貫友山(ゆうざん)は、私塾を経営するとともに村政にも尽力した人物として知られています。
主な資料 ③文政11年(1828)「游竜園私門示言叙」(若林家文書207)
④〔江戸時代後期〕〔筆道入門書〕(筆の持やう、一筆字筆道・格法七十五字)(奥貫家文書3283)
③ ④
3.江戸時代の教育③ -藩校-
江戸時代の埼玉県域では、岩槻藩が児玉南柯(なんか)の私塾である遷喬館(せんきょうかん)を藩校とし、忍藩は芳川波山(よしかわはざん)らが中心となって進脩館で藩士を教育しました。他にも川越・岡部藩が藩校を設けました。
主な資料 ⑤江戸時代後期 「児玉南柯日記」(児玉南柯1、31、53)
⑥天保12年(1841) 『学務知要』(小室家文書2337)
⑤ ⑥
4.近代の教育① -学制期-
明治5年(1872)、学制が公布され、翌年施行されました。小学校の設置が奨励され、埼玉県域で明治9年(1876)には647校を数えました。当時の埼玉県は師範学校を設置し、小学校の教員養成を行いました。
主な資料 ⑦明治6年(1873)「埼玉県小学教則」(小林〈正〉家文書1733)
⑧明治6年(1873)「暢発学校(校則・舎則)」(御正山家〈旧東陽寺〉文書24)
⑦ ⑧
5.近代の教育② -戦前・戦中期-
昭和16年(1941)、小学校は国民学校に改称されました。『埼玉県教育史』編さん事業で収集された本庄市北泉小学校の資料からは、太平洋戦争の戦況悪化に伴い、農作業などの勤労奉仕が増える様子が記されています。
主な資料 ⑨昭和17年(1942) 『初等科国語 四』(墨塗り教科書) (藤井家文書1021)
⑩昭和18(1943) 昭和十八年度 日誌(埼玉県教育史編さん室移籍文書157)
⑨ ⑩
6.映像で見る戦後の教育
昭和22年(1947)、現在まで続く6・3・3制の学校制度が定められました。
高度経済成長を経て、みんなの学び舎であった学校はその多くが木造校舎から鉄筋コンクリート校舎へと姿を変えましたが、戦後の学校の様子を収めた写真や映像からは、子供たちが変わらず元気に勉学に励む様子がうかがえます。
主な資料 ⑪昭和25年(1950) 浦和・常盤小の掃除(裸足で雑巾がけ)(埼玉新聞社撮影戦後報道写真S250055-1-2)
⑫昭和30年(1955) 川越市が完全給食(埼玉新聞社撮影戦後報道写真S302410-1-2)
⑪ ⑫
【開館時間】
午前9時~午後5時
【休館日】
・月曜日(県民の日に当たるときは、その翌日)
・毎月末日(令和6年6.8.11月の末日は開館)
・祝日
・年末年始(12月29日~翌1月3日)
・特別整理期間(令和6年5月15日~24日、11月19日~28日)